喜連川が歴史の表舞台に登場したのは、源義家の孫である頼純を祖とする塩谷惟広が源平合戦で戦功を上げ源頼朝からこの地を賜り、 文治二年(1186年)に倉ヶ崎城を築城したのが始まりでした。
以来17代400年喜連川を治めてきた塩谷氏は、天正18年に17代惟久が当主の時、豊臣秀吉の関東来襲を迎え、動員命令に遅参し怒りを買い、滅亡しました。
その後、秀吉は美人の誉れ高い惟久の妻、嶋子を窮愛し喜連川3千8百石を給し、嶋子の弟、国朝に古河公方足利義氏の娘、氏女を娶らせ、足利家を継がせました。国朝の死後、弟の頼氏が跡を継ぎ、喜連川氏を名のり後に千石加増され、5千石を領して明治に至りました。
二荒山神社境内にある須賀神社の7月の例祭です。神社の紋章がキュウリの切り口に似ていることから、キュウリが奉納されるので有名です。「親子神輿対面」が一番の見物です。
江戸時代から続くこの祭りは、夏の疫病払いが起源で、親子神輿対面は今年で54回目を迎えます。各町内から約40基の子供神輿が市内を練り歩いた後に、神社に安置された親神輿に対面します。元気のいい掛け声とともに、神社の石段を一気に駆け上がる勇壮さは見応えがあります。
慶長6年(1601)に足利頼氏と当町を代表する絶世の美女島姫(嶋子)等の父頼純を埋葬して以来、代々喜連川足利氏の菩提寺となっています。龍光寺境内には石塔54基のほか、石灯籠忠臣節婦の石碑5基が整然と並んで立っています。